Upload: Apr. 30, 2007
Last Update: Sep. 19. 2010

上村雪翁「尺八独案内」
1895年（明治28年）　　矢島誠進堂
（文化庁長官裁定による公開）

尺八獨稽古序

尺八ハ琵琶、横笛、篳篥、洞簫、羯皷ナドゝ共ニ漢以後の樂器ニシテ唐ノ玄宗ノ之ヲ好ミ專雅樂ニ用ヒタリシト云フ我朝ニ於テハ聖德太子中華ノ樂ヲ求メテ數多ノ伶人ニ是ヲ習ハシメ以テ朝廷ニ用ヒラルサレバ今尚ホ南都法隆寺ニ聖德太子ノ吹キ玉ヒシ尺八存シ其長サ一尺八分アリ故ニ之ヲ尺八ト云フ以來法亡ヒタリシヲ後白川天皇ノ世ニ之ヲ再興セシガ再ビ絶ユ小田原記ニ北條幼庵尺八ヲ製スルニ巧ミナリ幼庵斷トテ一節斷ノ尺八都鄙ニ流行シツ禁中ヨリモ御所望アリシト見ユ又　後陽成天皇ノ御宇文禄年間大森宗勲出テゝ五調子ノ尺八ヲ作リシ以來法ヲ宗勲ニ取レリ又德川幕府ノ世ニハ開祖普化禅師ノ流ヲ汲ム普化宗ノ僧尺八ヲ以テ讀經ニ換ヘツゝ之ヲ常人ニモ傳ヘタリ正德年間ニハ一節斷ト云フモノ流行ス是幼庵斷ト等シキモノニシテ竹ノ節ヲ一ツ込ムル故ニ斯ク名クサレバ節ヲ三ツ込ムルヲ三節斷ト云フナリ大宰春台曰彼ノ虚無僧ノ吹ク物ヲ尺八ト云フハ誤ニシテ彼レハ洞簫ノ類ナリトサレバ今日用フル處ノ尺八ハ一節斷ヨリ轉化シ來リシモノナランカ■[そ？]ハ兎モ角凡ソ音樂ハ妙ニ人ノ心ヲ感動セシムルモノナリ故ニ淫樂ヲ聽ケバ心蕩ケテ淫佚ニ流レ雅樂ヲ聽ケバ正クナリテ中和ニ合フ是天然ノ妙ナリ孝經ニ移風易俗莫善於樂ト云ルゝハ淫樂世ニ行ハルレバ民ノ風俗頽レ雅樂世ニ行ハルレバ民ノ風俗正クナル事古今是同シ風俗ヲ移シ易ルモノハ樂ナル故風俗ヲ保ツモノモ又樂ナリ尺八ノ音ノ妙ナル又雅ナル蘇子既ニ赤壁ノ賦ニ謂ヘリ今ヤ此尺八ヲ以テ明清樂ニ合奏シ甚シキハ三絃ト合奏シテ俗歌ヲ吹奏スルニ至ルサレドモ能ク某雅樂ハ三絃俗歌ノ淫聲ヲ掩ヒ反ツテ淫聲ヲ■（←鹽？）梅シ以テ移風易俗ノ効ヲ奏ス故ニ世人益々尺八吹奏ノ嗜好ヲ増スニ至レリ茲ニ於テ雪翁既ニ耳順此器ノ妙手近頃世ニ流布スル尺八ノ譜ノ粗雑ニシテ諸流混交シ初學者ヲシテ執流吹奏ニ迷アラシムルヲ嘆キ翁ガ一流ノ吹奏譜ヲ作ラレ斯道嗜好ノ初學ニ便セント書肆ニ命シテ此符ヲ活字ニ印シ予ニ示サル予採テ他書ニ比スレバ正確又三絃ノ合奏ヲ聽クニ律呂適節毫モ完全セザル處ナシ翁ノ自ラ責ヲ負フテ立タルゝ價値此書ノ上ニ明カ實ニ斯道初學ノ寳書ナリト信ズレバ聊カ尺八ノ沿革ヲ記シ以テ序ニ代フト云爾

明治廿八年蘭月中澣賣笛雅兄○○君之書室ニ於テ

天民　川原閑舟謹誌

本書（ほんしよ）は充分（しうぶん）初學者（しよがくしや）獨習（どくしふ）の便（べん）に供（きやう）せん爲（ため）總（すべ）て予（よ）が家符（かふ）を以（もつ）て長短（ちやうたん）緩急（くわんきふ）振曲（ひんきよく）の音節（おんせつ）を示（しめ）し他書（たしよ）に勝（まさ）るとも怠（おこた）らざるの結構（けつかう）を以（もつ）て記述（きじゆつ）したれば遺感（ゐかん）なきが如（ごと）きも素（も）と尺八（しやくはち）吹奏（○？ふく）の技（わざ）たる彼（か）の讀書（よみかき）算數（そろばん）習字（てならひ）の如（ごと）く獨習（ひとりけいこ）以て能（よ）く其（その）秘奥（おくぎ）に達（たつ）するは難（かた）し必（かなら）ずや此（この）技（わざ）に熟達（たんれん）したる師（しゝやう）の薫陶（をしへ）を受けざれば清朗（きよらか）なる竹音（おと）の調程（しらべ）を亂（みだ）し表裏（うらおもて）諸曲（しよきよく）其他（そのほか）外曲（ぐわいきよく）の妙音（みやうおん）を吹（ふ）き得（え）ざるものとす予（よ）や今（いま）茲（こゝ）に書肆（しよし）の需（もとめ）を納（い）れ此書（このしよ）を公（おゝやけ）にすと雖（いへど）も是（これ）當時（たうじ）流行（りうかう）の俗曲（そくきよく）に合奏（がつそう）したる卑近（てぢか）の曲（きょく）に十數番（ひうすうばん）の秘曲（ひきよく）を併（あは）せ載（の）せたるのみ故（ゆえ）に本書（ほんしよ）の全部（ぜんぶ）を吹奏（すいそう）し得（う）るを以（もつ）て足（た）れりとする勿（なか）れ學者（がくしや）若（も）し其（そ）の秘奥（おうぎ）を極（きは）めんと欲（ほつ）するものゝみならず苟（いやし）くも本書（ほんしよ）載（の）する處（ところ）のものなるも吹奏（すいそう）し難（がた）しと思惟（おもひ）せば一歩（いつぽ）の勞（らう）を吝（おし）まず予（よ）が茅庵（いへ）を訪（と）へ予（よ）は責（せめ）を負（お）ふて親（した）しく教授（きやうじゆう）するを吝（をし）まざるべし初學者（しよがくしや）必（かな）らず師（し）を竣（ま）たずして秘奥（おうぎ）を極（きは）め得（う）るものと誤解（ごかひ）するなからんことを啻（たゞ）に此（この）書（しよ）は尺八（しやくはち）吹奏（すいそう）の端緒（てはじめ）を開（ひら）くものと解（かい）して可（か）ならんか聊（いさゝ）か一言（いちげん）して初學者（しよがくしや）に告（つ）ぐ

難波小澤橋畔　　六歌仙　上村雪翁　謹述

凡　例

一　本書（このしよ）ハ三絃（さみせん）ニ合奏（あは）スベキ尺八（しやくはち）吹奏（すいそう）ヲ獨習（ひとりけいこ）セント欲（ほつ）スル有志者（ひとびと）ノ爲（ため）ニ編述（かきしる）シタルモノナルガ故（ゆえ）理論（りくつ）ノ如（ごと）キハ之（これ）ヲ省略（とりはづ）シ專（もつぱ）ラ實地（じつち）應用（おうよう）ニ便（べん）スル方法（てだて）ヲ以（もつ）テ記號（しるし）ヲ符（ふ）シタリ又（また）端唄（はうた）雑曲（ざつきよく）ノ如（ごと）キヲ吹奏（すいそう）セシムルハ固（もと）ヨリ本旨（ほんと）ニ非ズト雖（いへど）モ時（トキ）ノ流行（はやり）ニ伴（ともな）フノ方便（てだて）ノミ識者（しきしや）以（もつ）テ深（ふか）ク尤（とが）ムル勿（なか）レ

一　尺八（しやくはち）吹奏（すいそう）ヲ獨習（ひとりけいこ）セント欲（ほつ）スル者（もの）ハ先（ま）ツ十二律（じふにりつ）ノ吹奏（ふき）法（かた）ヲ練習（けいこう）シ次（つぎ）ニ符號（しるし）ヲ暗記（そらん）シ豫（あらかじ）メ歌謡（うたと）曲（ふ）節（し）ノ大要（あらまし）ヲ會得（えとく）シ置（お）クヲ要（えう）ス而（しか）シテ其（その）發音（はつおん）ノ緩急（くわんきふ）及（および）高低（たかひく）長短（ちやうたん）ハ各（おのおの）笛（ふえの）聲（こゑ）ヲ示（しめ）ス譜（ふ）ノ右（かた）傍（はら）又（また）ハ中間（あひだ）ニ挿記（はさみかき）シタル記號（しるし）ニ因（よつ）テ了知（れうち）スベシ

一　本書（このしよ）歌曲（うたの）中（うち）地方（ところ）ノ訛音（なまり）等（てう）ニ因（よ）リ多少（たせう）曲節（ふし）ヲ異（こと）ニスルモノアリ假令（たとへば）彼（か）ノ追分節（おいわけぶし）又（また）ハ流行歌（はやりうた）ノ如（ごと）キモノ予（よ）ハ是等（これら）ニ對（たい）シテハ大体（だいたい）ノ要點（ところ）ヲ採（と）リテ作曲（さくきよく）シタレハ其（その）曲（ふ）節（し）ノ細點（こまかき）ニ至（いたつ）テハ各（おのおの）地方（ところの）人（ひと）ガ歌唱（うた）ノ訛音（なまり）ニ基（もとづ）キ酌量（か）加（げ）減（ん）シ以（もつ）テ其（その）曲（ふ）節（し）ニ合奏（あは）スベシ

[略]

○合曲（あはせ）調子（ちやうし）
尺八に合奏（がつそう）すべき樂器（がくき）數種（すうしゆ）ありと雖（いえど）も琴（こと）、三絃（さみせん）、胡弓（こきう）の三曲に合奏するを例（れい）とす此三曲に用ふるは一尺八寸の尺八を以てすれば音調（おんちやう）共（とも）に相（あい）適（かな）ふなり今三絃の調子（ちやうし）に合はすべき調子の譜を左に示す

[略]

○本曲（ほんきよく）
本曲（ほんきよく）とは他の樂器（がくき）に合奏（がつそう）することなき古傳（こでん）の諸曲（しよきよく）を云ふ從來（じうらい）は專（もつぱ）ら吊祀（てうし）の法筵（はふえん）或は追薦（ついぜん）の爲め靈魂（れいこん）を慰むるに吹奏（すいそう）なしたるものなれば斯道（このみち）の名手（めいしゆ）是を吹奏（すいそう）せらるゝを聽（き）くときは實（じつ）に音調（おんちやう）清雅（せいが）にして高尚（こふしやう）優美（いうび）なる者故（ゆえ）に左に其曲名を示さん

○古傳（こでん）の三曲（さんきよく）
　　霧海■鈴慕（むかいこれいぼ）[■はタケカンムリにトラ：つまり「ジ」]
　　虚空鈴慕（こくうれいぼ）
　　眞虚靈（しんきよれい）

○本曲名目（ほんきよくめうもく）
　　鉢返調（はちかへしのしらべ）
　　瀧落曲（たきおとしのきょく）
　　秋田管垣（あきたくだかき）
　　轉管垣（てんくわんけん）
　　九州鈴慕（きうしうれいぼ）
　　志圖曲（しづのきよく）
　　京鈴慕（きやうれいぼ）
　　盤渉調（はんしやううちやう）
　　琴三虚靈（きんさんきよれい）
　　吉野鈴慕（よしのれいぼ）
　　榮獅子（さかえじし）
　　打替虚靈（うちかへきよれい）
　　葦草鈴慕（ゐそうれいぼ）
　　伊豆鈴慕（いづれいぼ）
　　鈴慕流（れいぼなが）シ
　　下野虚靈（しもつけきよれい）
　　目黒獅子（めくろじし）
　　吟龍虚空（ぎんりようきよくう）
　　佐山管垣（さざんくわんけん）
　　三谷管垣（さんこくくわんけん）
　　下（さか）リ葉曲（はのきよく）
　　波間鈴慕（はかんれいぼ）

○秘曲（ひきよく）
　　巣鶴鈴慕（そうかくれいぼ）
　　鹿遠音（ろくえんいん）
　　曙調子（あけぼのちやうし）
　　雲井調子（くもゐのちやうし）

○尺八（しやくはち）製作（せいさく）の心得（こゝろえ）
尺八は此術（このじゆつ）に老練（らうれん）なる人にあらざれば良器（よきもの）を製出（つくりいだ）すること難（かた）きや論（ろん）を竣（ま）たされども誠（こゝろみ）に製出せんと欲する人なきにあらざるべければ今（いま）其（その）製法を左に示すべし
尺八を製作（せいさく）せんと欲すれば先ず上下（うえした）に節（ふし）を存(そん）し成（なる）べく両節（りようふし）の間（あひだ）に五個（いつゝ）の節（ふし）を籠（こ）めて七節（なゝふし）となるべくして總丈（そうたけ）一尺八寸に滿（み）ち而して其周圍（まはり）は三寸位（ぐらゐ）筒内（つゝのうち）の廣（ひろ）さ上部歌口（うたぐち）にて直徑（さしわたし）六分五厘位下部にて六分位尚（な）ほ歌口（うたぐち）より筒内を通視（とうし）して末口（すゑぐち）の孔殆んど半月形（はんげつかた）に見ゆる如く灣曲（まかり）したる適度（てきど）の竹を撰（えら）むべし
尺八の孔（あな）の大小と長短（ちやうたん）は其發音（はつおん）に關係（くわんけい）を及（およ）ぼすものたれば孔の大小（だいせう）は竹（たけ）の長短（ちやうたん）に應（おう）じ竹の長短は太（ふと）さの細太（さいた）に比例（ひれい）して鑿（ほ）るべし且つ孔は不同（ふどう）なき様一整（いつせい）にすべし
尺八は内部の節抜（ふしぬ）きは三尺位の長さなる鐵抃（てつぼく）の尖（さき）に刃を附（つ）けたるものを以てし充分（じうぶん）に滑澤（すべすべと）ならしむるを要す

[略]

[尺八製造販売の広告が掲載されています．]
1895年(明治28年）京都俣野眞龍製造尺八
　極上壱等　3円
　ニ等　2円50銭
　三等　2円
　四等　1円50銭
　五等　1円20銭
　六等　80銭，番外 60銭

[譜面（本曲はこの２曲のみ）]
　鶴（つる）の巣籠（すごも）
　　[譜では「つるのすごもり」]

　本曲鈴慕（ほんきよくれいぼ）
　　[譜では「ほんきよくれいほう」]

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